ポイントのコメント
[ひだかたけし]
〉狭い空間の隅々まで満ちて
降ってくるような歌声に包まれ
音源を超える声の熱に
こめかみが痺れ 鳥肌が立ち続ける
この生々しい詩表現から響いて来るもの、
もう一つの現実リアルかと。
僕もライヴ帰りやら毎夜ヘッドホンで音響音声に充たされつつ、
いっつも想うのですが、
この夢の様な時に掴んだもの、
人集りのガヤガヤと交差点やら隣部屋のTV音やら
ファアックっ!と何故か…◯√ゝ(笑)。
---2025/11/04 19:44追記---
返信、以下ポツポツと思いつくがまま書かせて頂きますね。
〉ひだか様は、バンドもされていたと聞きました。
舞台からの感覚や心情とは、どんなものなんでしょう?
バンドの音楽を聴くことはあっても、演奏を人に聴いてもらうこと(小学生時代の吹奏楽や合唱合奏コンクールは置いといて)は経験したことがないので、憧れます???(???????)???
えと、読ませて貰い、先ず感じたこと、と言うか想い出したことなんですが、
中二でバンド組んで、大学生時改めてメンバー募集して空中分解する20歳半ば過ぎ迄のバンド活動で、僕自身、所謂アガる緊張した記憶が無いんですよ
これ、エラソーに言ってるんじゃなくて(コピバン卒業してからは作詞作曲担当してたので、自己責任能力プライドはそれなりにあったはずなわけで、どう皆んなに聴かれるか聴いて貰うか聴かせるか、緊張感は半端なかった筈なんですが)。
(後、高校時の学園祭廻りで演奏した時に、当時の彼女から「なんで◯◯くんは舞台の上だとあんなエラソー(正確には「大胆なの?」と言われたのでした(想い出して付記〜O〜;))と言われたことがありまして…)
まあ、小学時からピアノ発表会で市民公会堂やらでアンプした曲弾かされてたり、後は、バンドだと他メンバーがいたり…はあったと思うのですが)。
で、改めて想うのですが、やはり音楽なるもの、自分の内なる別の次元の自分自身を呼び込むからでは、と。
音楽以外の表現だと対象が在るじゃないですか、表現対象が(カンディンスキーの所謂抽象絵画等は全く別として)、
でも、音楽の基本にはこの感覚次元での対象を欠いて居る!
なので、花野さんが仰る通り、聴き手も演り手もその日常的次元とは異なる自分自身と向き合い包み込まれる気付きが在る、あったなぁと。
---2025/11/04 20:02追記---
自分が呼び出した筈のものが普段の自分自身には意識されないものとして現れて来ることの驚き驚愕、という1点にて、演奏者としての僕は、聴き手とは違ってたのかな…と。
これは、一般論としてでは無く、飽くまでも1バンドマンとしての僕の立場から振り返るに、です。
(ここらへん突き詰めていくと、なんで空中分解したのか、お解かりになるかと(笑)\(泣))。とりあえず。◯√ゝ
---2025/11/04 20:21追記---
上記コメント以下に、訂正します。
「自分が呼び出した筈のものが普段の自分には意識されない自分自身=SOUND響(ビートメロディハーモニー)そのものとして現れて来ることの驚き驚愕、という1点にて、演奏者としての僕は、聴き手とは違ってたのかな…と。なんてか、音楽そのものとその都度その都度ライヴとして向かい合うこと(音楽は時間存在ですから)の緊張感の方が、たぶん、オーディエンスと向かい合うことのそれを超えて居た、というか…◯…?」
また、今夜ひだか作品『苦しみ』、花野さんへのこのリコメしながらハッキリ形取ったもの(キング・クリムゾン&マイブラディ・バレンタインを今夕ずっと聴いて居て現れ出たものから)を詩表現化したものです。
誉さんに深く感謝致します。
---2025/11/04 22:39追記---
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