「休憩と宿泊の間には今日も火球がふっている」を読む/おまる
。
読み手は一般的な宗教説話的「供犠」解釈に当てはめていいものか、
判断がつかない。
この、イメージ結像させずにあいまいにし、
ナラティブを失敗させることであえて断片化させるのが、
サバカンさんっぽいと私が感じる部分である。
またしても「平成史」的な想い出話をすると、
ゼロ年代から特に文化面でセクショナリズム再評価の
機運がたかまり、と同時に、大江健三郎の「宙返り」よろしく、
メシアがいないならその模造品を捏造する、という現象が
あちらこちらで起きた。
(また聞きでは詩も例外ではなかったようだ...
文学極道の濃厚な自己参照性を思い起こそう
残党の小セクトでの巧妙に敷
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